各地に猛威を奮った台風15号が過ぎ去った翌日の9月22日。
台風一過の晴天とは行かなかったが明日香は時折小雨が降ったりやんだりとすっきりしない天気が続いた。
今回向かった先は明日香村の向原寺。日本最初の寺と言われている所。
ここは調べれば調べるほど面白く、まさに明日香村は遺跡の中の村であるということがよく分かる。
ここを訪れたのには目的があった。それは2010年に36年ぶりに盗難から戻ってきたという飛鳥時代の金銅像を拝見するためでもある。
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向原寺(豊浦寺跡) |
日本書紀によれば日本に初めて仏像や経論が伝えられたのは、欽明天皇十三年(552年)のことで(538年という説もある)、百済の聖明王から伝えられたのがはじまりである。
欽明天皇は献上された仏像の礼拝の可否を群臣たちに求めたところ、仏教派の蘇我稲目(蘇我馬子の父)はその仏像を安置させるために自分の邸宅を寺として立て直したという。それがここ向源寺の場所であり、向原寺の前進である豊浦寺である。つまり仏教が伝来した最初の地がこの場所なのだ。
しかし、仏教という新しい文化に反対していたのは蘇我氏と対立していた物部尾輿と中臣鎌子などの群臣達。また、運の悪いことにその年に悪疫が出て、これは異文化を持ってきたからだと物部の猛反発に合う。
そして、物部氏など反対派により寺は焼かれ仏像は「難波の堀江」に捨てられた。
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難波池 |
伝説によるとその捨てられた仏像は推古天皇八年(600年)に信濃の住人である本田善光が長野に持ち帰り、善光寺を建立して安置したという説もある。ちなみに善光寺の本尊は絶対秘仏のため開帳されることはない。
この向原寺のすぐ南には難波池という池が実際にある。ここに物部氏たちが仏像を捨てたとされているが「難波の堀江」というのがここのことを指すのか、または大阪の難波の池を指すのかは分かっていない。この難波池では近すぎて反対派により仏像が捨てられてから50年近く誰も探さなかったというのはどうにも納得できない。また、その場所が大阪に今でもある地名の難波という説もあるがこれも明日香から距離が遠く、難波までわざわざ捨てるとも考えにくい。
もしかすると「難波の堀江」というのは、この明日香からそう遠くない場所にあったのかもしれない。
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向原寺(豊浦寺跡) 本堂 |
その後、推古天皇が稲目の邸宅跡である豊浦寺の地に宮を置き豊浦宮とされたのだが、向原寺の蘓我原敬浄住職に本堂の裏に案内してもらうと発掘調査のための遺跡がそのままにしてあった。
通常、明日香では建て替えをする時などは、必ずこのように発掘調査をするのだという。それが寺院であれ民家であれ調査をしてから元の状態に埋めてから建てるのだとか。
原則として埋めるわけであるからこのようにそのまま残してあるというのは珍しい。この写真に写っている箇所は豊浦宮の後だと推定されているようで、聖徳太子も実際にここを歩いたのだろう。またこの更に下の層には、蘇我稲目の私邸でもある豊浦寺が眠っているのだ。遺跡の上に現在の明日香という村が建っているということがよく分かる。
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向原寺(豊浦寺跡) 遺跡 |
写真中央やや左よりには掘立柱建物跡やその周りの石敷遺構がある。他にも文様石もあるので、事前予約をしていない場合は、庫裏に申し出れば見学ができるという。
本堂の中には発掘調査の資料や写真も多く、また盗難に遭い2010年にお帰りになった金銅仏の写真パネルなどもあり住職に色々と話しを聞かせていただいた。
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向原寺(豊浦寺跡) 本堂 |
そして、今回の目的の一つでもある金銅仏を拝見させていただく。堂内を見渡してもその姿はなくどこか別のお堂に安置しているのかと思っていたが、内陣の左側のふすまを開けるとガラスケースの中に安置された観音像の姿があった。
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向原寺(豊浦寺跡) 金銅観音菩薩像 |
こちらが昭和49年に盗まれて行方が分からなくなっていた金銅観音菩薩像で高さは約40cm。2010年に発見されて実に36年ぶりに向原寺にお帰りになられたのである。
頭部は飛鳥時代後期に日本国内で造られたもので、首から下や光背、台座は江戸時代の後補である。この金銅仏が発見されたのは江戸時代の明和九年(1772)に遡る。向原寺のすぐ南にある難波池からこの仏像の頭部だけが発見され、京都の仏師が江戸時代に頭部以外の部分を鋳造して接合して厨子に入れられた。
これが、頭部は飛鳥時代首から下が江戸時代という一風変わった金銅仏の誕生である。
その後、昭和の時代まで人々に守られ祀られていた金銅仏であるが、昭和49年に盗難事件は起きた。
新聞でも大きく取り上げられたというこの盗難事件であるが、何十年も戻ってくることはなく2010年に会員制のオークションに出品されているのを金銅仏を研究していた大阪の大学院生が偶然見つけ寺に連絡し、向原寺の寺宝は36年ぶりに帰って来られた。その大学院生が見つけなければまた誰かの手へと渡っていたかもしれない。そんな話をする住職の顔はとても嬉しそうだった。
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向原寺(豊浦寺跡) 金銅観音菩薩像 |
無事に帰ってきたものの、厨子は未だ見つかっておらず現在はガラスケースの中に安置されている。そのお顔は、杏仁形といわれる杏の種のような目、角形ながらもふっくらとした頬、下鼻の膨らみがない鼻の形、口の両端が少し上がったアルカイックスマイルと飛鳥時代の特徴がよく出ている。
頭上の化仏は如来の線描で髻との大きさのバランスもよい。
明日香のこの地では観音信仰があったという背景も面白い。
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甘樫座神社 |
向原寺の裏手、東側には甘樫坐神社(あまかしいますじんじゃ)がある。この辺りまで豊浦寺の境内があった事は間違いがないようだ。
明日香という地は本当に奥が深く面白い。1500年近く前からの文化が何層にも固め積み重ねられ数メートル下に存在するのだ。そして古代から寺のあったところに今も寺が建っている。
この日は稲渕の棚田にたくさんの彼岸花が咲いていた。季節は夏から秋に変わっていく。
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稲渕の棚田 |
向原寺(豊浦寺跡)HP:ナシ
所在地:奈良県高市郡明日香村豊浦630
近鉄「橿原神宮前」駅より周遊バスにて約6分「豊浦」下車徒歩1分
時刻表はこちら>>
拝観時間:不明(事前予約が望ましい)
拝観料:200円
その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>
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| また、蘓我原住職は観光ボランティアもされており2011年9月1日に発売された飛鳥地方の魅力と解説がたくさん詰まった観光ガイドブック「極・飛鳥」というにも登場している。この本には寺社仏閣が390件も掲載されている。飛鳥観光にはおすすめの一冊です。
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参拝日:2010/09/22 |